
奥様の紀美子さんと長男、次男の4人家族である瀬戸口拓世さんは、鹿児島県霧島市にある半導体メーカーに勤務されています。趣味はスポーツ観戦で、ご自身も余暇を利用し、30歳のときから15年間スポーツジムに通われていました。明るいご家庭と充実した仕事、そして健やかな日々。順風満帆な人生を送られていた瀬戸口さんの運命を一転させたのは5年前の誕生日に受けられた胃のバリウム検査でした。
診断はスキルス性胃がん、ステージ3a
異変が見つかったときの経緯からお聞かせください。
私どもの会社では2年ごとに人間ドックを受ける決まりになっています。36歳のときのバリウム検査で「胃潰瘍になった痕のようなものがある」といわれましたが、気にはしませんでした。それまで病気とは無縁でしたし、スポーツジムにも通っていて、健康には自信があったんです。
10年後。46歳のとき、やはり人間ドックでバリウムを飲み、X線写真を十数枚撮られました。今年も大丈夫だろうと思っていたとき、最後の1枚で医師が首をひねったんです。「…びらんかな」と。でも私自身、胃は痛くも痒くもない。自覚症状がなければ病気じゃないくらいの感覚でした。体重は少し落ちていましたが、当時は熊本に単身赴任していたこともあり、そのせいだろうと思いました。

とはいえ、やはり気になるので翌週、自宅近くのM医院で胃カメラの検査を受けました。結果は「がんの可能性がある」ということでした。46年間生きてきて、初めて「がん」という言葉を自分のこととして聞いたんです。 疑わしい部分の組織を採取し、病理検査に回されることになりました。そして数日後、M医院からの電話。「検査の結果、がんではありませんでした」と。そのときは心から安堵しましたね。あぁ、ただの胃潰瘍だったんだ、と。
1カ月後、もう一度M医院で胃カメラ検査を受けました。胃潰瘍が良くなったかどうかを診てもらうためです。すると、良くなっていないとの診断で、また胃の組織を採りました。 3、4日後、職場にいる私に家内から電話が入りました。M医院に結果を聞きに行ってくれたようです。家内は泣いているような声で、「やっぱり、がんだった」と告げました。
そのときのショックというのは?
言葉では言い尽くせません。家内も私と同じだったようです。がんという結果を聞かされた瞬間、すべての風景が違って見えました。何も感情が湧かないんです。手術を受けなければという思いだけがありました。熊本の部屋はそのままに、急いで鹿児島へ帰り、2日後には総合病院に入院しました。
術前の検査では次々に悪い結果が出ました。胃がんはあのアナウンサーだった逸見さんと同じ、悪性度の極めて高いスキルス性胃がんであるということ。胃は全摘しなくてはいけないということ。…胃のない生活とはどういうものか、想像もつかずに狼狽しました。胃に近いリンパ節1群にも転移していることがわかり、そこも切除することになりました。
入院から1週間後に手術を受け、3週間後に病理検査の結果が出ました。そこでまたショックを受けたんです。1群までと思われた転移はリンパ節2群にも及んでいたため、そこも切除したと言うのです。思わず「3群は大丈夫ですか?」と聞いたところ、「そこは取っていないのでわかりません」と。結局、進行度は『ステージ3a』と判定されました。
その重い結果を息子さんたちにはどのように?
伝えませんでした。胃潰瘍で、少し胃を切ったことにしました。長男は大学4年生、次男はセンター試験が目前だったんです。だから私のことで動揺させたくないと思いました。
上昇を続ける腫瘍マーカー、そして…
手術後から、瀬戸口さんの闘病が始まるわけですね。
術後はとにかく不安との闘いでした。生活への不安、食べることへの不安、転移の不安…。術前に73kgあった体重もどんどん減り、2カ月で60kgまで落ちました。
病院からは術後1カ月目に経口抗がん剤のTS−1とクレスチンを与えられました。そのときも医師に「最初から点滴の抗がん剤をやって結果が出なければ手の打ちようがありませんから」と言われ、また落ち込みました。私としては何の知識もありませんから医師の言葉に「はい」と答えるしかありません。ただ、何とかしなければという思いは強くありました。がん関係の本を読みあさり、がんに効くと喧伝されていた代替系の食品を購入し、抗がん剤と並行させました。
職場には手術から1カ月半で復帰できましたが、抗がん剤の副作用か、体力的にはすごくきつかったですね。幸い、上司のはからいで仕事を軽減してもらい、周囲にも気を遣っていただきました。その意味で私は恵まれていたと思います。
がん進行の目安となる腫瘍マーカーの推移は?
毎月2つの検査機関で腫瘍マーカーCEAの検査を受けました。手術3日前の検査ではCEA1.4という数値でしたが、抗がん剤と健康食品を継続していたにもかかわらず、腫瘍マーカーの値は2.7、3.8と毎月着実に上昇していきました。

安全圏の上限は5.0ですが、術後半年で4.5に達しました。医師に「上限を超えた場合は?」と相談すると、「点滴の抗がん剤に変えましょう」と。やっと以前の生活のリズムを取り戻しつつあったときです。どうにか働けて、週末には体力的にきついながらも家に帰れてという。なのに、また入院をすればすべて崩れてしまう。点滴の抗がん剤に変えれば、副作用は今より激しくなり、結局は…、と。悪い筋書きに入ってきたことを痛感しました。
手術から10カ月後、腫瘍マーカーは上限の5.0を超え、6.4まで上昇しました。結果を見て、イチかバチかの行動に出るしかないと決断しました。抗がん剤も医師に黙って中止し、それまでの健康食品も次々に中止しました。
自分の判断に賭けようと思われたわけですね。
そうです。がん治療はどんな大病院に行っても手術、放射線、抗がん剤の選択肢しかありませんが、それ以外の方法も絶対にあるはずだと思ったんです。毎日何時間もインターネットにアクセスし、別の治療法はないかと探し続けました。そして、独自の方法でがん治療を試みている医師にも東京や埼玉まで会いに行きました。
すごい行動力ですね。その早い決断が生死を分けた?
ある医師からは「あと1年くらいの命でしょう」と言われました。ところが、別の医師は「100歳まで生きられます」と言う。「えーっ」と(笑)。それまで、どの医師も私に厳しいことしか告げませんでした。気休めにせよ「生きられます」という言葉に励まされました。「がんばるぞ、がんばれるぞ」という前向きな気持ちになることができたんです。
そんな心境の変化も良かったのかもしれません。抗がん剤を止め、3週間後に腫瘍マーカーの検査を受けました。前回は上限値を超えた6.4でした。その数値がさらに高くなっていたら医師は入院と抗がん剤の点滴治療をすすめたと思います。しかし、結果は上限値内の4.6に下がっていました。
なぜ、腫瘍マーカーが下がったのか理由はわかりません。抗がん剤を止めたことで自己免疫力が戻ってきたのか、メンタルな変化が数字に表れたのか…。とにかく点滴に繋がれるかどうかの瀬戸際で4.6という値が出た。それは私の運命を変えた数字だったと思います。
大きな岐路であったわけですね。その後は?
不安は依然あったのでインターネットで情報の検索を続けました。
そしてある日「フコイダン」というものを知ったんです。よくはわからないけれど、何か良さそうだな、と。
数日後、大阪でフコイダンを使ってがん治療を行なっている吉田医院の先生と電話で話す機会を得ました。吉田先生がすすめてくれたのは「ダッシュ療法」というものです。最初の3カ月、フコイダンを大量に取り入れ、がんを徹底的に叩く。効果が認められたら、状況を見ながら、また経済的なことも考えながら、最低維持量を継続していくという療法です。
その後、吉田先生も所属されているNPO法人『統合医療と健康を考える会』(以下、統健会)を知り、鹿児島市内に支部があることも知りました。そこで浜砂支部長と会い、医学博士の堂福先生とお会いしました。がんの専門家である堂福先生からはフコイダンや食事などについてのさまざまなアドバイスを受けることができました。それは胃を摘出して1年、今から4年前の出会いです。そして今日まで定期的に統健会を訪れ、堂福先生や浜砂さんに相談にのってもらっています。

当初、試していた代替系の健康食品は電話一本で簡単に購入できました。しかし、それらを医師ががん治療に取り入れている例は、自分で調べた限りありませんでした。フコイダンの場合は、がん患者にフコイダン療法を取り入れ、継続的に治療し、指導やアドバイスをしてくれる医師が大勢いる。さらに統健会というNPO団体がある。そうしたサポート体制が他の代替食品とは決定的に違うと思いました。もちろん、薬ではないので、効果の証明がなされることはないでしょうが、患者からすればそんなことはどうでもいい。まずは、良くなればいいんです。
以来、その少し前に自分で始めたミネラルと並行し、フコイダン療法を続けています。腫瘍マーカーは多少上下しましたが、ずっと安全圏内で推移しています。抗がん剤でも抑えきれなかったマーカーの上昇が、4年間も抑えられているというのは、やはりすごいことだと思います。
病気から得たこと、伝えたいこと
今のお気持ちはいかがでしょう?
感慨深いものがあります。11日前、ちょうど入院から5年目にあたる日に検査を受けました。検査の前、担当の医師が「いよいよ卒業試験ですね」と言ってくれました。
結果として腫瘍マーカーは1.8。腹部CT、エコー、大腸カメラ、上部内視鏡といった画像検査においても『明らかな再発や転移の所見は指摘できません』という診断でした。
抗がん剤から代替医療に転換されたことも勇気のいる決断だったと思います。
その強い思いを支えていたものとは?
やはり家族です。とくに家内。こっ恥ずかしくて「ありがとう」とはなかなか言えませんが(笑)。
胃を全摘したので、献立や料理にさまざまな工夫をしてもらいました。細かく切ったり、軟らかくしたりと。最初の頃は吐き気もあったので、おにぎりや芋を持って会社に行き、分食しました。それも毎日作ってもらいました。
職場の方々にも感謝しています。手術後も熊本で単身赴任を続けたのですが、上司のはからいで鹿児島に戻ることができました。上司の言葉をそのまま言うと「家族と暮らしなさい」と。万一のことを考え、私に家族と過ごす時間を与えてくださったんだろうなと思います。
がんによって胃はなくされましたが、闘病体験から瀬戸口さんが得たものもあるのではないでしょうか?
普通の生活ができることのありがたさを知ったということです。がんが見つかり、手術をし、それでも腫瘍マーカーは上がり続けた。つねに不安にさいなまれていました。生活のリズムは病院と検査の繰り返しでガタガタに崩れ、物理的な問題、経済的な問題、家内や子どもに対する心配も積み重なってくる。地獄を見たような思いでした。
やがてフコイダンと出合い、真っ暗なトンネルの向こうにほんの少し光が見えてくるような感じがしました。その頃、ある番組に俳優の黒沢年男さんが出演されていて、この方も40代後半で大腸がんになられたのですが、テレビでこんなことを言っていました。「心配してがんが治るものなら、私は心配し尽くします。しかし、何ともならないのなら、心配するだけ無駄ですから、私は心配しないようにしています」と。大事な心構えだと思いました。その頃はマーカーの数値が少し上がっただけで、こちらの統健会支部に来て、浜砂さんに「大丈夫ですかね、まだ生きられますかね」と相談し、いつも叱咤激励されていましたから(笑)。

でも、2年、3年と過ぎ、次第に「行けるぞ」という気持ちに変わってきたんです。手術から4年が経過した頃は人から「どうですか?」と聞かれたとき「大丈夫、大丈夫。まったく問題ないよ!」と、言い切るようにしました。自分自身を鼓舞する意味であえてそう言うようにしました。
5年が過ぎた今、100%とは言えませんが、ひとまず安全圏に入ったのかなと思います。がん患者の瀬戸口から、元がん患者の瀬戸口に変わってもいいのではないかと。そう思うと、ただ普通にしているだけで、自然に喜びが込み上げてくるんです。普通の生活って、こんなに幸せだったんだ、と。
たとえば75歳まで生きられるとすると、あと25年。病気をしなかったら愚痴を言い、欲を言い、煩悩のままに生きていたと思います。病気を経験したからこそ普通の生活のありがたさを知った。同じ25年にしても、人並みに生きられるありがたさを50歳代で知り得たのは収穫かなと思います。そして、病気を通じ、すべてに感謝できるようになりました。いろんな方と知り合え、いろんな方に支えられて今の自分がある。すべては「ありがとう」という言葉に集約されます。
手術から5年間をクリアして、お祝いは?
じつは来週末、長男のいる東京へ家内と遊びに行きます。毎年12月は夫婦で東京に行ってまして、芝居やラグビーの試合を観たりするんですが、今年はちょっと特別なんです。長男に結婚したいという女性が現れまして、今回はその方とお会いするんです。どんなお話をしたらいいんだろうと今から悩んでいます(笑)。でも、そんなことを考えられること自体がうれしい。世の中から見たら、ごく普通の家族の風景ですが、それが素晴らしいことなんだなと思います。
最後にメッセージを。

がんと聞かされ、ショックを受けない人はどこにもいません。しかし、それで終わらずに、絶対に助かるんだ、道はあるんだと思ってください。生きる道は必ずあると信じ、負けない気持ちを強く持ってがんばってほしいと思います。












